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まつりのあと

まつりは片思いと誤解の絡み合い。

江戸末期の徳川政権の政は混沌を極めたが、各藩においての政も同様だった。

NHK大河ドラマ八重の桜は、会津戦争が終わり一段落したところだが、歴史において会津藩の立場ほど奇妙なものはない。会津藩は徳川一門の親藩であり徳川幕府に忠実であった。その徳川幕府の要請により松平容保は京都守護職を務め、孝明天皇からも厚い信頼を得て、容保も天皇に忠誠を誓う。しかし、天皇、いや公家は薩摩長州にまつりあげられている。会津藩は天皇をお守りしているとはいえ薩摩長州から見たら徳川方であり敵である。さらに戊辰戦争においては徳川慶喜から見捨てられてしまい、誰の何のために戦をしているのかわからない状態となってしまった。容保は徳川にも天皇にも忠誠であったにもかかわらず、時代の強烈な渦に巻き込まれ徳川にも天皇公家にも想いは届かず悲劇を生んだ。

一方、大河ドラマ龍馬伝が再放送されており、土佐勤王等の武市半平太が山内容堂から疎まれる場面だった。武市は完全に尊皇攘夷だが、容堂は基本的には公武合体派であるものの、「酔えば勤王、覚めれば佐幕」という非常に面倒な思想だった。武市は坂本龍馬とは違い、藩全体を勤王に持って行きたいという藩の意識が強く、当然大殿様として容堂を崇拝している。土佐山内家は関ヶ原の戦いで勝利し家康から土佐の地を賜っただけに徳川を裏切ることはできないが、容堂も天皇あっての徳川であることは理解していたのだと思う。しかし、土佐には関ヶ原で負けた長曽我部一族も残り、山内家が上士、長曽我部一族が下士という強烈な身分制度があり、武市は下士(上士に近い下士だったが)であるため、容堂と武市は相容れることはなく、武市の想いも容堂には届かず粛清されてしまう。

八月十八日の政変の長州藩にいたってはもっと過酷だ。天皇に恋いこがれ公家を動かしてきたものの、薩摩との政争に敗れ天皇公家からは疎まれ、何度も名誉挽回を諮るも届かない。ただし、坂本龍馬の薩長同盟によりやっと救われることとなる。

徳川政権の政のあとは、各藩や幕末に奔走した志士の届かぬ想いや誤解が絡み合って明治維新が成し遂げられたのではないかと思う。

 

さて、大分では先週末の3日間、七夕祭りが開催されとても盛り上がっておりました。最終日の花火しかみてませんけど、初々しいカップルや若いグループがたくさんはしゃいでましたね。若い頃のワタシは片思いばかりで祭りは切ない感じもあり、「底なしの海に沈めた愛もある 胸に残る祭りのあとで 花火は燃え尽きた(by桑田佳祐)」ってとこだったでしょうか。なんて。。。

ただ、政治はどうかわかりませんが、人の一生においては、相思相愛である人は1人で十分ですね。